放送作家・町山広美の映画レビュー
『悪は存在しない』『人間の境界』
InRedの長寿映画連載「レッド・ムービー、カモーン」。放送作家の町山広美さんが、独自の視点で最新映画をレビュー。
居場所を失っても
もう森には帰れない
ケモノに襲われた。家を荒らされた。そんなニュースが急激に珍しくなくなった。原因は気候変動、自然破壊。動物保護を見直せという声もあるが、動物たちにしてみれば、人間たちの衰退に気づいているのかもしれない。
『悪は存在しない』は人間と動物の接点、森の話だ。濱口竜介監督は映画を、空が透けて見える樹冠の連なりをたどる、長い長い移動ショットで始める。とにかく長い。石橋英子の音楽が、いくつかのフランス映画を想起させる。そしてこの映画が当初、彼女の音楽のための映像として制作されたことを知っているとなおさら、物語を捕まえようという姿勢を忘れ、画面を虚心で眺めてしまう。心地いい。
舞台は長野県の山間の町。森のもとに暮らす人たちがいる。便利屋を名乗る中年男は、小学生の娘と二人暮らし。なにか暗い経緯がありそうだが、穏やかな生活を続けたいという思いは確かで、それは他の住人も同様。移住者が多いようだ。
ところが森の一部を東京の芸能プロが取得、近年流行りのグランピング施設が計画されており、人々の思惑があれこれ行き交う事態に。状況は俄かに、コメディの様相さえ帯びる。昭和の高度成長期に量産された映画が描いたような、金儲けをめぐる人間喜劇、会社と人生の間で木の葉のごとく揺れるサラリーマンの滑稽さ、その今日版だ。
他人の生活に悪い影響をもたらす事実に目をつぶり、利益を追求する。そんな自らの酷薄に直面しない方法が、最近はすっかりデフォルトになっている。コンサル会社のアドバイスを仰いだ結果、として酷薄をアウトソーシングしてしまえばいい。
誰も悪意を引き受けない社会を、どうやら私たちは発明しつつあるわけだ。ここは「そう受け取られたのであれば謝罪する」という、結果への責任から逃れる言葉がお詫びとして通用する場所なのだから。
では森の向こうはどうだろう。お互いを言いくるめあって危うく保たれている人間社会のやり口は、通用するだろうか。あちらの世界に、そもそも善悪は無用だ。
ある瞬間には、のほほんと無力感を楽しむサラリーマン喜劇にさえ接近していたこの映画を、ショーン・ペン監督作か中上健次の小説かにも通じる暴力が突き刺す。そして残るのは、かつてヌーベルヴァーグの起点にロベール・ブレッソン監督が置いたような問いだ。たぶん悪魔も寄りつかない場所の、白い暗闇。