放送作家・町山広美の映画レビュー
『Shirley シャーリイ』『WALK UP』
InRedの長寿映画連載「レッド・ムービー、カモーン」。放送作家の町山広美さんが、独自の視点で最新映画をレビュー。
“わたし”から出る
“わたし”を離れる
「みんなたったひとりの〝わたし〟しか知らないし」「自分以外の人間を〝わたし〟にすることはできない。誰もが自分自身に縛り付けられてて、自分が騙されてる(中略)と気づいても、なかなかそれが信じられない」。
セルフプロデュースやセルフラブや自己責任に囲まれてる現在の〝わたし〟たちのことではなく、これは1951年に出版された小説の一節。作者はシャーリイ・ジャクスン。その名を冠した文学賞を、スティーヴン・キングや小川洋子が受賞している。
「Shirley シャーリイ」は、彼女の小説と同様、ジャンルに整理するとこぼれ落ちるものが多過ぎる映画だ。伝記、心理サスペンス、ホラー。カビくさい呼称をあえて持ち出せば、女性映画。そして、小説の創作プロセスを解明する批評でもある。どのレイヤーからかぶりついても咀嚼が楽しめるよう、徹底的に練られている。
戦後のアメリカ、北東部のある街に新妻のローズが、大学に職を求める夫とともに引っ越してくる。上司にあたるハイマン教授は、同居して家事を請け負えと押し付けてきた。傲慢なその男の妻こそが、シャーリイ。
映画は当初、このローズの目線だ。今も短編の名作に数えられる『くじ』を発表し、人間の暗い本能を指さすその鋭利さが世間の不快を招いている話題の作家ご本人に、対面。噂通りの魔女だと怯える。見透かされ、いたぶられ、早くここを出たいと夫にせがむ。
ローズは一見、夫の上司のセクハラも笑顔で交わす「良き妻」だが、妊娠して学業を中断したことを悔いていた。シャーリイは創作の苦しみと、夫婦の危うく異様な関係にもがいていた。夫は作家業を支えてくれ、共犯者にはなれるが、共通の敵がいないと攻撃は妻の自分を突き刺す。2人の女は、眠れない夜のキッチンで、お互いの苦しみに心を近づけるようになる。
シャーリイには企みもあった。夫たちが勤める女子大の学生が行方不明になった話題の事件を、どう小説にするか。ローズがふと口にした「存在に気づいてもらいたかった」にヒントを得て、普通の若い女であるローズを介して、消えた女の子を自分の脳内に降霊しようと目論んだ。
冒頭に引用したのは、その小説『絞首人』の一節だ。17歳の女の子が不安や恐怖から這いずりだし、独りで歩き出すまでの美しい成長譚。それを、実際の事件からどう捻り出したのか。映画は創作の謎を解いていく。
現実と幻想は混濁し、ローズとシャーリイ、さらには消えた女の子が多層に交感する。時にお互いの庇護者=母親となり、愛情の対象となり、さらには「あり得たかもしれないもうひとりの〝わたし〟」になり代わる。だってシャーリイが言うように、「この世界は女の子には残酷すぎる」。小説のタイトルは『絞首人』だが、犯人探しは必要ない。重要なのは、首にかかる縄は社会が握ってるというそのこと。
脚本家と監督、この映画は2人の女性の名前を記憶させずにおかない。