【7月公開映画】放送作家・町山広美の映画レビュー
『墓泥棒と失われた女神』『メイ·ディセンバー ゆれる真実』

InRedの長寿映画連載「レッド・ムービー、カモーン」。放送作家の町山広美さんが、独自の視点で最新映画をレビュー。

私に見える現実の奥に
私には見えない現実が

「夢」「仮想」「理想」「物語」。それぞれ意味は違うのに、「現実」はどの対語も引き受けられる。対をなす相手次第で、意味が変わる。 

 そんな「現実」に、自分を全部おかなくてもいいんじゃない?と微笑むのが『墓泥棒と失われた女神』。アリーチェ·ロルヴァケル監督は、今や世界で最も次回作が期待される一人だが、彼女の見世物小屋に入ると、境界は溶け、慣れ親しんだシステムの外へ誘導されてしまう。愛らしい外観を湛えつつ「思想強め」なのだ。 

 80年代、イタリアの田舎町。刑務所帰りのアーサーが、墓泥棒の仲間に引き戻される。トスカーナ州に属するこの町の地下には、紀元前に栄えたエトルリア文明の墓が散在。豊かな副葬品が眠っている。アーサーは考古学に詳しく、地下の財宝などのありかを潜在意識で感じ取るというダウジングの達人でもある。 

 地下の世界と交感できるのは、彼が意識の奥深くで、この世から姿を消した恋人ベニアミーナの存在を感じ続けているからだ。いつかきっと、赤い糸を引き合えるはず。 

 ベニアミーナの母親もまた、娘の死を信じない。その家に通ううちアーサーは、歌手だった母親の歌の生徒であり家政婦代わりでもある女性、イタリアに心を近づける。ともにこの地では異邦人。暗かった彼の顔に、次第に生気が戻ってきたが、さてどうなる。 

 墓泥棒たちは一見、農家も取り込む巨大な経済システムの外にいて自由を謳歌している。だが盗品を買い叩くブローカーが、金持ちの集う闇のアート市場でそれらを高値で取引していることがわかってしまう。彼らはシステムの歯車にすぎなかったのだ。 

 搾取なしには成り立たない資本主義からの、逃走。それはロルヴァケル監督の一貫したテーマだが今回は、イタリアと名乗る女性を通して、逃走の先の場所を描く。寄り合い所帯の「分かち合い」に希望を見るのだ。 

 物語の骨組みはギリシャ神話、亡き妻を生者の世界へ引き戻そうとしたオルフェウスの悲劇である。アーサーは、死者の世界へ降りていくオルフェウスにも、生者の世界に救い出される妻にも見立てられている。 

 この映画において生と死、現実と幻想、現実と夢、過去と現在、二つの世界は往来可能であり等価だからだ。全編に、フェリーニを筆頭とする名監督たちの仕事からの率直な引用が、遺跡さながらにちりばめられているのも、過去と現在の共存であるだろう。原題の「キメラ」は、異質な細胞が一つの体に混在する怪物に由来する。二項対立は無用、対立からの自由。死も夢も幻想も過去も共存するラストシーンには、意識の奥にかけていたロックが外れたように涙があふれ出た。

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